9月11日以後の原子力政策と民主主義のあり方

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9月11日以後の原子力政策と民主主義のあり方

 
 スイス、バーゼルにて開催された
  「核戦争防止のための国際医師団」(IPS/IPPNW)主催の
  シンポジウムにおける発言


村田 光平(前駐スイス大使)

             
                             
2002年4月26日、27日

 原子力政策の決定過程に関するこのセッションの議長を務めさせていただくことは、私にとって大変光栄であり、嬉しいことであります。

 まず、原子力政策に対する私の立場を述べさせて頂きます。

 1997年1月、私がスイス大使をしていた時、私は日本の指導者に対して、スイスが2,3ヵ月以前に実施したように、日本でも原子力事故のシミュレーションを行って欲しいと訴える私信を発出しました。このことにより私は言わばタブーを犯したわけです。


 つまり、日本では、原子力の危険性を述べることは、反原発の立場をほのめかすこととなり、厄介な問題や不利な結果を招くので避けなければならないと思わせる独特の風潮があります。

 その2ヶ月後、東海村の再処理工場で爆発事故がありました。そしてさらに一年半後には皆さんご存知の通り、再び東海村で、JCOウラン加工工場で1ミリグラムのウランが誤った作業手順により臨海に達し、大変な事故となりました。

 そうして私は大使を辞めた2年半前から、国内外で地球の非核化、つまり軍事利用、民事利用を問わないすべての核エネルギー利用の禁止を唱えて参りました。

 同じ主張を2年前にインドのTATAエネルギー研究所の25周年記念国際会議で発表した際、出席していたロバート・マクナマラ元米国国防長官は、人的ミスにより破局的事故が惹起される危険性が大変高いことを強調しつつ、核兵器の一日も早い廃絶を熱烈に訴えました。

 9月11日の同時多発テロ、米原子力潜水艦と訓練船「えひめ丸」との衝突事故、台湾海峡上空における米・中戦闘機の衝突事故などは、いずれもこうした議論が正しいことを示していると思われます。ニューヨーク市議会が、今年3月19日に、満場一致でインディアンポイント原子力発電所の閉鎖を検討することを決めたこともうなずけます。

 日本の原子力政策の現状について見ますと、日本は多くの重大な事故から教訓を学んだとは言えず、依然原子力推進政策を続けております。日本という唯一の原爆被曝国が、このようなことをしていることは大変な皮肉と言わざるを得ません。現在53基の原発を抱えた日本は、国家の安全保障の観点からも、最も脆弱な国となってしまいました。

 一年前に私は著書を出版しました。本のタイトルは「新しい文明の提唱―未来の世代に捧げる」です。核の軍事利用の犠牲国である日本が、今度は核の民事利用の犠牲国になる道を進んでいると指摘しました。「日本病」という言葉をこの本で初めて使い、このような特殊な現象を説明しました。

 私は倫理と連帯に基づき、環境及び未来の世代の利益を尊重する新しい文明を提唱しています。このような新しい文明は、物質から精神の優先順位の転換を求めるものであり、エネルギー消費がより少ない社会を生むでしょう。

 また、1ヶ月後には朝日新聞社から2冊目の本を出します。この本のタイトルは、「原子力と日本病」です。日本病は三つの感覚の欠如から生じたものであると書いています。つまり、責任感、正義感、倫理観です。世界も日本ほどではないかもしれませんが、同じ病に苦しんでいると言えるでしょう。私はこのような現象は全て思いやりや想像力などの源泉となる感性の欠如に起因すると思っています。

 さらには、原子力と日本病が
世界を破滅することもあり得ると論じています。特に私は2つの具体例を挙げました。一つは国の公的機関によりマグニチュード8クラスの地震の発生が予測されている震源域のど真ん中に建設されている4基の浜岡原発です。もう一つは、青森県六ヶ所村の再処理工場です。この工場では、広島原爆の実に100万発分もの放射能が蓄積される予定です。

 もし最悪の事態が生じれば、先の戦争での被害を遥かに上回ることになるでしょう。しかしながら日本の社会においては、この問題を報道することに関して
暗黙裡に課せられた自主規制のために、かくも恐ろしい危険に対する認識は全くありません。

 この風潮は、先の戦争が始まる以前の日本を彷彿させるものであります。本の中で、私は浜岡原発の即刻閉鎖を求めております。現在、この問題に関して世論を目覚めさせるため、影響力のある人々と連名の声明を用意しています。

 日本の原子力政策は、エネルギー源の不足に対処するために貢献してきました。しかし、この巨大技術の致命的な欠点を目の当たりにし、政策転換の必要性についての認識は高まりつつあります。しかしながら原子力政策の変換は至難であり、そのため計り知れない危険に日本は晒されているのです。

 ここ数年、私は指導層に原子力の危険を警告するために、あらゆる機会をとらえ個人的な手紙を送り続けてきました。しかし、その成果には失望を禁じ得ず、私は原子力政策の転換を図るには市民社会の関与が不可欠であるとの結論に達しました。幸いに、私は最近いくつかの市民グループから協力の申し出を受けました。これら小市民グループが浜岡原発に関して声明を出すよう示唆してくれたのです。

 現状における最良の方策は、市民グループが地方自治体に働きかけ、これを受けて地方自治体が国会を動かすようにすることではないかと思っています。政府もこのような動きがあれば、影響を受けざるを得ないでしょう。近々発表する声明は、世論を動員することをも目的としており、これによって地方自治体が正しい方向にむけてイニシアティブを開始することを期待するものであります。

 私は市民社会が、原子力政策の決定過程において不可欠な役割を果たすと確信しています。このことは人間社会の決定要因に変化が見られ出したことを反映しています。つまり、知性から感性へ、権力から哲学へ、技術から直観へ、専門家から市民への重要性の転換です。

 優れた直観と哲学の感覚を持った市民なら専門家に立ち向かい、1500kmに及ぶ配管と40万ヶ所に及ぶ溶接部を有する再処理工場の長期的な安全を確保することは全く不可能であると断言出来るはずです。

 最後に、国際社会が取り組むべき3つの課題につき、述べたいと思います。

一つ目は原子力エネルギーに関する基本的な事実、即ち安全確保のために必要な全てのコストを計算に入れる価格の内部化が実施されれば、原子力利用は商業的に成り立たないということを周知させることです。そのような原子力に依存し、大変な危険を犯す理由はどこにもないはずです。原発の輸出などは言語道断です。

二つ目は既存の原発に対する国際的な管理強化の必要性です。国家主権は、必要な調査を受けることを拒否する口実にはもはやなり得ません。破局的な事故が起きれば、それは一国にとどまらず、世界を破滅することにもなり得るからです。

 三つ目の点は文明間の対話に関することです。原子力の問題はエネルギー消費を減らすような我々の生活スタイルの変化を視野に入れて対処していかねばなりません。この問題は文明間の対話の枠組みの中で扱うのが最も適していると思われます。

 原子力事故の深刻な影響に鑑みれば、核施設を持たない国も、関係国が取るべき安全対策について関与し、協議を受けるべきだと思います。これも文明間対話にとり、大変時宜を得た話題だと思います。

 原子力の問題は倫理と責任の問題に集約されると思います。危険であり、商業的にも採算に合わないものであると知りながら、原子力施設を他国に輸出することは倫理にかなっているでしょうか?危険やコストの問題を承知の上で、政策決定者がこのような施設を輸入する側に加担することは倫理的でしょうか?

 核廃棄物の処分の仕方も知らずに、また何十万という人員の動員を必要とする事故を鎮圧する備えもなくして、36カ国において430基以上もの原発を稼働させ続けることは責任感の欠如ではないでしょうか?


 そして誰にとっても自明な悲惨な破局の種を取り除くために何もしないでいるということは、正義感の欠如であると断じざると得ないと思います。 私は、良識ある医師の方々が組織した今回のシンポジウムが、世界が患っている病気を癒し、3つの感覚―倫理観、責任感、正義感を取り戻すことに貢献することを期待してやみません。

 我々には二つの選択が残されています。
 一つ目は地球の非核化を開始すること、二つ目は破局的な災害により、一つ目の地球の非核化を選ばざるを得なくなることであります。


― 以上 ―


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